1月10日(水)、11日(木)、13日(土)、お稽古。なぎなたの厳しさとは。
10日、10名(内幼1名)。
一対多数のち、しかけ応じ2、3、6本目。
形1、5本目。
道具をつけて打ち返し。
11日、10名(内高1、中1、小3、幼1)。
一対多数。
振り返し。
しかけ応じ1、2本目。
打ち返し。
13日、11名(内中1、小3、幼1)。
一対多数。
振り返し、
しかけ応じ1、2本目。2、3、6本目。
形1、2本目。
道具をつけて打ち返し。
皆様に新年のなぎなたの目標を書いていただきました。
それぞれの段階はあります。全員に当てはまることもあります。
改善点の指導を受けたなら、次回の稽古には同じことは指導を受けないようにする。つまり、改善して稽古に臨むことです。先生は、どなたにも必ずその段階でできる修正点、改善点をお伝えしています。基本的な姿勢、構えを含め、ご指導いただいた注意点を直さないのならば、いつ、上達しますか。それが、アトリエで言う、自分を見つめた厳しい稽古なのです。
昨年の夏、アトリエの稽古を厳しい稽古と先生が言った時、「厳しい?全然・・」と言う声がありました。そしてつい先日も、管理人が先生の稽古を「厳しい稽古だと思います」そうお話ししましたら、「いいえちっとも、他の先生方はもっと厳しいです」そう言う方がいました。
皆様の言う、厳しい先生ってどんなだろうと想像しています。もしかして、、威張っている人のことですか? 先生と言われる立場になって(そして長く居て)、自分が偉くなったと勘違いをして威張る、怒鳴る、使いっ走りをさせるという人がいるのは知っています。 でも、なぎなたに於いてそれはあり得ませんよね。
なぎなたで威張る?なぎなたをやっているぐらいで、先輩になったぐらいで、指導者になったぐらいで威張る、と言うこと。だとしたらその方はなぎなたを稽古している意味がありませんね。武道とは、なぎなたとは何か。精神修行の最たるものを私たちは稽古しています。なぎなたを稽古しているのにそれで威張るのは恥ですね。
なぎなたの修錬で本当に厳しいと言うことは、自分の稽古をすることですね。それは最も指導者に当てはまることです。長く指導していれば指導は上手になって行きます。指導が上手な先生が、正しいなぎなたをしているか。ここが厳しさです。
「自分が出来ているだなんてありえない」そう先生は言います。
その時は出来たかもしれない。だけど相手が変わっても出来るかどうか。明日は出来るか。常に出来るかどうか。
厳しい稽古って、そう言うことなんです。常に自分がどんななぎなたをしているかどうか。正しいなぎなたを示せているだろうか。弟子は見ていますね。段が上になれば皆、目が肥えてきます。あの先生は口では上手に指導するけれど、実際は違うことをしている。そう思われないような指導者にならなければなりません。
稽古の厳しさは威張ることではありません。稽古の中ではきちんとすることは当たり前です。稽古でちゃんとした振る舞いが出来ていないことを、怒鳴って指導したりすることは間違って居ますね。きちんとすることは恐縮することではありません。心が恐縮している状態でどうして伸び伸びとした大きな技が出せますか。
「自分が出来ているだなんてありえない」「だけど出来ていなくはない」これは大切ですね。
自分は下手だ、駄目だと卑下するものではありません。だってなぎなたですもの。でも、自分は上手で偉いだなんて威張るものでもありません。だってなぎなたですもん。人の上に立ち、威張るためになぎなたを初めたんじゃないでしょう。
昇級昇段や入賞という、目に見える形でご自分の上達を実感されるだけでなく、日々の稽古、この中での気づきがなぎなたの修錬で最も大切なことなのです。
本当のなぎなたの厳しさとは。アトリエの稽古で感じますね。私たちの先生は、本当に正しく美しいなぎなたをされていますね。示されていますね。皆様、感じるでしょう。この世になぎなたの先生と呼ばれる人は沢山います。ですが、私たちの先生はご自身の稽古に対する姿勢だけでなく、お人柄も本当に真の指導者でありますね。なぜならアトリエの稽古で、厳しさだけでなく、なぎなたの優美さ、しなやかさを感じるでしょう。ね。これが本当のなぎなたなんです。
この気づきのために、ご自分の稽古を今一度見直して、修錬を積みましょう。
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