パズルのピース。

ずっと形の稽古をしています。研究、研究、研究です。一つづつ、です。始めのうちは、あれもこれもできなくて、あれもこれもやらなくては(できるようにならなくては)、と思っていました。今は、こことここを工夫して、それができるようになったら次の技を研究しよう。そう思って稽古をしています。ようやくそう思えるようになりました。

一つのことを集中して稽古することは、多くを稽古するよりも早く習得できる。もっともなことですが、改めてです。ここで言う集中しての稽古は、技の稽古のことです。演技競技に出るために組んだ相手と長時間、決まった本数をするのではありません。むしろ、勧めません。

今、稽古をしていて思うことは、本当に、全ての技は繋がっている。ということです。そしてありがたいことに私たちは左右対称の動きをします。左(半身)でできないことも右に(なぎなたを)持ち替えたら自然とできていることは多くあります。なぎなたは相手がいないと稽古が出来ない、そんなことありませんね。自分の身体のできている方が見本になり、先生でもあります。

面の振り上げがうまく出来ない。では巻き落としてからの振り上げはどうでしょう。繰り出す出さないの違いはありますが、同じ振り上げ面です。間合いは近くなりますが、同じ打突です。逆もまた。

4本目の脛が打てない。それなら打ち返しの脛はどうされていますか。また、1本目の脛は。間合いはずっと近いですが打突しているはずです。

5本目の払い、大変難しいですね。真横に払う。踏みかえた足を開く、つまり体を開くと同時に払います。足も大事ですが、腰につく手の位置。重要です。最近感じるようになったことは、やはり7本目の払い落としと同じだということ。いや!正確にいうと違いますが。払いと払い落としは違いますが、技を掛けるということです。突きを突くために目の前にある相手のなぎなたをどかすための技ではないのだ、そう感じました。技を掛ける。相手のなぎなたを殺す。それは打突以上に強烈な技ではありませんか。5本目、7本目の払い、そして3本目の巻き落とし。完全に相手のなぎなたを使えさせなくする技です。形も同じですね。1本目、なやし巻き落とし、3本目、巻き上げて落とし、5本目、打ち落とし、7本目、巻き上げて落とし。

形3本目の脛の巻き上げ、後ろ足が寄ってしまう場合があります。それはただ単に巻き上げた時、後ろ足を意識していないだけのことです。たったそれだけなんです。巻き上げること、打つこと、前方ばかりに意識が行っていて、自分自身、足元、そして後ろの方まで気持ちが入っていないだけなんです。巻き上げた瞬間に後ろ足の引き付け具合を意識してください。ふくらはぎ、利いていますか?

今月に入って、形6本目仕の巻き上げの時の一歩踏み込んだところの左脚の指摘を戴きました。踏み込んだ時に前傾にならないように腰をしっかりとしていたつもりですが、「左脚、もっとしっかりしてみて」そう言われてすぐに気がつきました。3本目の巻き上げた時の脚の感覚と同じだったのです。6本目の巻き上げる直前の左脚の感覚のことです。思えばどちらも巻き上げ技で正面を向いています。

後ろの足といえばやっぱり送り足。打突の時、送り足はどうしているでしょうか。意識から後ろ脚を切り落としていませんか。体を変えるのに出す足も然りです。どちらも摺り足。足の裏が見えてはいませんか。振り上げ、振り返しでも同じです。踵が上がり過ぎていませんか。 管理人、しばらく前はそれを考えると途方もなく感じ、考えることをやめたくなるほどグッタリしていました。それでもやらなくてはなりません。それは本当に自分の稽古です。一つ一つ、確実に修正します。それでしか上達の道は有り得ないからです。兎に角、一人での稽古です。勿論先生にも見ていただく必要があります。でも相手を立てる必要はありません。むしろ、相手はいない方が良い。足の動きだけに集中できる方が良い。時々は鏡が必要です。足ばかり意識して全体を忘れないために。

そしてそれはいつの日にかしっかりと自分のものになっています。無意識のうちに。

しかし、、ここが大切。常に自分を見張ることが必要です。「出来ているはずがない」本当にそう。


6本目の巻き上げの時の左脚に気づいたことで、3本目の巻き上げの時の左足も意識することが出来るようになりました。実に面白い、なぎなた!!

今、気づいたりご指導を戴いたりして修正していることは、まるでパズルのようだと思いました。一つ、一つ、ぼんやりとしたところに正しいピースを合わせてはめこんでいく様な。

しかけ応じも、形もそれなりに出来る様になったと思っていました。忘れず、間違えず出来る様になったことがパズルを仕上げたという感覚に繋がったのかと思います。しかし、最近になってそのパズルはバラバラに崩すことがなく、はまっていたピースが浮いてくるのです。一度できあがった、仕上げたパズルなんですよ。しかけ応じも1から8本目まで覚えた。形も7本目まで打仕とも覚えた。それなりにできるようになった(と思っている)。お伝えもさせていただいている。そこまで出来たパズルなんです。でも新しいパズルを始めるのでもなく、一度自分の中で仕上がったパズルを崩して一からはめるわけでもなく、完成していたパズルのピースが自然に(勝手に)浮いてきたので他を探してはめ直している、そんな感じです。一度はめてはまったけれど、しばらくすると都合が悪くなってきた。そんな感じ。外したピースはそのパズルでは二度と使用しません。でも、大切にとっておきます。お伝えする時に使用できる様に。


昨夜母に、しかけ応じも形も(打ち返しも)、まるでパズルのピースの様だと話しました。できあがった(と思っていた)パズルだけど、所々浮いてくる。そこを拾って正しいピースを探して埋め込んでいく様な感覚だと。これが一生続くんだと感じていることを。一生、浮いたピースを修正していくんですね。誰も到達できないところを目指して。「そして死ぬのよ」すっきりと、笑顔で言ってくれました。


深く学ぶと言いますが、私たちは頂上を目指しているのではないのですか?深くとは、下へ向かう言葉ではないのでしょうか。どちらにしても、頂上も底も、何人とも生きている間は永遠に辿り着けない処なのでしょう。終点なんて無い処を目指しているのかもしれません。総ての分野はそこに向かっているのだろうと思います。なぎなたも其の一つ。

アトリエK なぎなた教室

茨城県水戸市にあるなぎなた教室のHPです。

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